青蓮院と青不動復元模写公開 青蓮院門跡について

天台宗の京都五箇室門跡のひとつ

青蓮院は東山の閑静な緑の多い地域に位置し、古くより門主(住職)が皇室や摂関家によって受け継がれてきた門跡寺院です。平安時代に創建され、戦後一般公開されました。天台宗総本山比叡山延暦寺の三門跡(青蓮院、三千院、妙法院)のひとつで、現在は天台宗の京都五箇室門跡(青蓮院門跡、妙法院門跡、三千院門跡、曼殊院門跡、毘沙門堂門跡)のひとつに数えられています。

復元模写 不動明王二童子像(青不動明王)2014年

青蓮院門跡

起源は最澄がつくった僧坊「青蓮坊」

起源は、日本天台宗の祖、伝統大師最澄が比叡山延暦寺を開くにあたって山頂につくった僧侶のための住坊のひとつ「青蓮坊」です。
平安時代末期に青蓮院の第十二代行玄大僧正に鳥羽法皇がご帰依になり第七王子をその弟子をされ、院の御所に準じて京都に殿舎を造営して青蓮院と改称したのが門跡寺院としての始まりです。別名を粟田御所ともいい江戸時代には後櫻町上皇の仮御所になりました。

ご本尊は熾盛光如来

ご本尊は熾盛光如来といい、天台宗に伝わる密教の修法「熾盛光法」の本尊にあたる仏様で、鎮護国家や護国安穏、また宮中のご祈祷が頻繁に行われてきました。院内には、国宝「青不動明王」のほか、「浜松図」襖など16件の重要文化財の美術品があります。

相阿弥や小堀遠州作の美しい庭園

室町時代の相阿弥作と伝えられる築山泉水庭、江戸時代の子堀遠州作と伝えられる霧島の庭、大森有斐作と伝えられる好文亭前庭、宸殿前の苔の庭など様々な庭園美と四季の彩りをご堪能いただけます。



第三世門主慈円をはじめ、尊円親王、朝彦親王など著名な門主を輩出

歴代門主には、著名な人物も多く輩出しています。平安末期から鎌倉時代にかけて第三世門主慈圓は天台座主を四度務め、その宗風は仏教界を風靡しました。歴史哲学者として不朽の名著『愚管抄』を残したほか、歌人としても有名で『拾玉集』を残しています。またこのとき浄土真宗の祖、親鸞聖人が宸殿にて得度しました。境内門前の大楠は親鸞聖人お手植えと伝えられており、京都市天然記念物とされています。さらに書道のお家流の祖の尊円親王、華道青蓮院流の尊鎮親王、幕末の尊皇、幕末の尊皇の士に慕われた朝彦親王等、歴史上の著名な門主により受け継がれてきました。

青不動復元模写公開

不動明王二童子像

3年にわたる修理現場で得た膨大なデータをもとに制作された復元模写

復元模写は、調査を含め2年かがりで制作されました。文化庁による3年間にわたる修理で明らかになった裏彩色の情報や、顕微鏡写真、赤外線写真、X線写真などをもとに、模写を専門に行っている六法美術によって当時の色彩が現代に甦りました。

平安時代と同じ糸の太さで同じ目の絹を織り、同時に4枚を継ぎ合わせる

原本は絹に描かれています。平安時代には幅の広い絹を織ることができなかったため、約20センチから50センチ幅の4枚の絹をつないで大きい画面にしてあります。復元模写に使用した絹は、修理の際に欠失箇所を補うために織られた絹と同じものです。原本と同じ糸の太さ、同じ日のものを西陣で織り、日本刺繍の専門家が原本と同じような縫い方でつなぎました。

 

科学調査で判明した、背景に使われたエンジと藍、頭髪の金色など

科学調査では、背景からはエンジと藍の反応がありました。また青不動の頭髪からは、金と銀が検出されました。銀が含まれた金を使用したため、現在では大部分が黒変していますが、当初頭髪は金色だったのです。

青不動は華やかな色彩の絵ですが、表面には絵具はあまり厚く塗られていません。これは裏彩色といって、裏から彩色し、やわらかい色の効果をねらう技法で描かれているからです。また冠や瓔珞、腕釧などには、金箔を絹裏から押す裏箔という手法を用い、表から淡い色で隈を施した繊細な表現がなされています。

修理過程で得た膨大なデータとともに、原本照合調査で詳細に観察した結果、二童子の衣のすべてに文様があることが判明し、より鮮やかな衣装が復元されました。