桓武天皇が平安京を決めた場所 将軍塚
8世紀、桓武天皇は都を奈良から京都南方の長岡に移されましたがいろいろと事故が続きました。そこで、和気清麻呂が天皇を東山山頂にお誘いし、この辺りから京都盆地を見下ろしながら、京都が都の場所にふさわしい旨進言。天皇はその勧めに従って延暦13年(794年)、平安遷都に着手されました。桓武天皇は、都の鎮護のために、直径約20メートル、高さ2.5メートル程の将軍の像を土で作り、鎧甲を着せ鉄の弓矢を持たせ太刀を帯させ、塚に埋めるように命じました。これがこの地を「将軍塚」と呼ぶ由来です。
国家の大事があると将軍塚が鳴動
平安時代後期の天台僧による「鳥羽僧正絵巻」には将軍塚造営の絵図が残されているほか、国家の大事があるとこの将軍塚が鳴動したという伝説が「源平盛衰記」や「太平記」にも残されています。近代では、東郷元帥、黒木大将、大隈重信、菊池大雪などのお手植えの松と石柱があり、往時の偉人たちが訪れ、京の都を一望して将来に思いを馳せたことが偲ばれる由緒ある場所です。
五山の送り火や春秋の紅葉の名所
春秋にはライトアップも行い、五山の送り火や精霊の回向法要の時も多くの人が訪れております。京都市内、比叡山から大阪までを一望できる景勝の地で、また境内、約三千坪の庭園は、桜、源平枝垂れ桃、紅葉の名所として有名です。